祝:アテネ五輪 LW2X 出場決定
岩本亜希子選手
出場決定からオリンピック開幕前までのメディア各紙の報道

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ボート会場練習に手応え アテネの岩本・内山ペア
 ボート軽量級女子ダブルスカルの岩本亜希子(アイリスオーヤマ・岡谷南高―早大―日体大大学院出)、内山佳保里(デンソー)ペアがアテネ五輪開幕を翌日に控えた12日、競技会場で練習。「(直前の)イタリア合宿の疲れが徐々に取れ、いいこぎができるようになってきた」と順調な調整をアピールした。レースは15日から始まる。

 イタリアのミラノ郊外で2週間の合宿を経て、10日にアテネ入り。この日が前日夕に続き、競技会場で2度目の練習となった。波の高さが指摘されていたコースだが、岩本は「波は想像の3分の1。(高校時代に練習した)諏訪湖に比べれば、かわいいもの」と気にする様子はなかった。

 シドニーに続き2度目の五輪を迎える岩本は「4年前とは艇の動きが全然違っていていい感じ。いよいよ始まるんだなと、気持ちが高まってきた」。初出場の内山は「早く雰囲気に慣れて感覚をつかみ、安定したこぎができるようにしたい」と表情を引き締めた。日本ボート協会の細淵雅邦強化委員は「2人は伸びしろがかなりあるので、8位以内を期待したい」と話した。

 ボート会場はアテネ中心部から北東に40キロ余り離れた場所にある。競技開始時間が早いこともあり、日本チームは選手村には入らず、近くにアパートを確保。岩本らボート選手は開会式には参加しない。


(信濃毎日新聞:2004年8月13日)

ボート・岩本選手
アテネまでの軌跡(上)
意地で取った銀メダル
アジア大会・自分の強さアピール

 十三日に開幕するアテネ五輪に、諏訪市出身でボートの岩本亜希子選手(二五)=アイリスオーヤマ=が女子軽量級ダブルスカルで出場する。県内のボート選手では二大会連続の五輪代表は初めてだ。シドニー五輪から四年。その間、大学院進学や就職と環境の変化もあり、一時は日本代表から外れるどん底も味わった。ひたむきに夢を追い続けた、アテネまでの四年間の軌跡をたどった。


 四年前の九月。軽量級ダブルスカルでシドニー五輪に出場した岩本は、世界とのレベルの差を痛感した。スタートから積極的に飛び出したはずだったが、周りのクルーに置いていかれ、まったく歯が立たない。目標にしていた準決勝進出を果たせず、結果は十四位に終わった。「アテネでもう一度戦いたい」。世界との差を見せ付けられた悔しさから、四年後の雪辱を誓った。

 それからは日本代表になるだけでなく、世界と互角に渡り合うことが目標になった。五輪で見た強豪クルーの技術とパワーに近づこうと、ハイレベルな漕(こ)ぎを目指すようになり、ますます競技に没頭していった。

 明確な目標ができた一方で、早稲田大学四年だった岩本は進路の選択に迷った。アテネ五輪を目指し、ボートを続けることに迷いはない。だが、どこで漕ぐのが一番いいのか実業団行きも考えたが、悩んだ末、日体大大学院への進学を決めた。勉強を続けながら、これまでと同じ東京五輪ボートコース(埼玉県戸田市)で漕ぎ続ける環境を選んだ。戸田のコースは国内トップ選手を集めたナショナルチームの練習会場でもある。

 しかし、道のりは順風ではなかった。二〇〇一年、大学院一年目のシーズンは伸び悩む。前年にシングルスカルで優勝した全日本選手権で四位に落ち込み、世界選手権では軽量級ダブルスカルで十四位に。高校時代から抱える慢性的な腰痛、さらに結果が出ないことへのもどかしさと焦り。心技両面でベストの状態を保てなくなり、ナショナルチームからも外されてしまった。

 高校時代に世界ジュニア選手権代表に選ばれるなど着実に力をつけ、大学進学後に国際経験を積んでシドニー五輪代表の座をつかんだ岩本。目標にしている「世界で戦う以前に、日本のトップになれない現実が待っていた。「負けたままでは絶対に終われない」。辛く苦しい時期を耐え、悔しさを力に変えた。

 〇二年六月、アジア大会に派遣する重量級クルーの選考レースがあった。日本が重点強化する軽量級はナショナルチームのメンバーが代表入りする。重量級は小柄な日本人選手にとっては不利な種目とされるが、軽量級で出場できない岩本はあえて挑戦した。「結果を出して自分の強さをアピールしたい」。選考会でダブルスカルの出場権を獲得。本番では同大会の日本女子で最高の二位に食い込んだ。意地で取った銀メダルだった。

<写真>韓国で開かれたアジア大会で銀メダルを獲得した岩本亜希子(右)。山内敦子(左)と組んだダブルスカルで健闘した
(長野日報:2004年8月10日掲載)

ボート・岩本選手
アテネまでの軌跡(中)
1位の中国に15秒の大差
五輪切符もレースに不満足

 シドニー五輪後の二度目の転機は二〇〇三年春だった。日体大大学院修了を機に、岩本は「思い切って自分を変えたい」とそれまで六年間を過ごしたホームグラウンドの埼玉県戸田市を離れ、宮城県仙台市に本社のあるアイリスオーヤマに入社。新しい環境でゼロからの再スタートを切った。

 そのシーズンは全日本選手権と国体でシングルスカルで優勝。再びナショナルチーム入りした。新しい環境で心機一転、漕(こ)ぎの感覚やスピードを磨いていったように見えたが、アテネ五輪出場を懸けた同年八月の世界選手権代表は、五輪派遣種目の軽量級ダブルスカルから外れ、シングルスカルに回った。「なぜ私が選ばれなかったのか」。しばらく立ち直れなかったという。

 だが、そんな岩本に再びチャンスが巡ってきた。この大会で軽量級ダブルスカルの五輪出場枠を得られなかった日本クルーは翌年のアジア地区予選で再度、出場権を狙うことに。メンバーも再選考することになった。「次は絶対に私が乗る」。固く心に誓った。

 それからの半年間は、これまでのボート人生で「一番濃い日々だった」という。アジア地区予選の代表クルーに選ばれるためには、だれもが認める実力と結果が必要だった。「ほかの選手と僅差では駄目。自分の中に少しでも負ける要因をつくってはいけない」。体調管理や練習内容などすべてにアテネへの思いをかけた。

 今年四月、中国での五輪アジア地区予選。国内選考を勝ち上がった岩本は軽量級ダブルスカルに乗って二位になり、五輪代表切符をつかんだ。念願のアテネ行きを決め「とりあえずホッとした」。だが、レース内容は決して満足できるものではなかった。「一位の中国に15秒の大差をつけられてぼう然とした」。五輪出場だけでなく、世界での結果にこだわる岩本。さらなるレベルアップに向けて表情を引き締めた。

<写真>シングルスカルを漕ぐ岩本亜希子
(長野日報:2004年8月11日掲載)

ボート・岩本選手
アテネまでの軌跡(下)
「目標は8位入賞」
10年間のすべてぶつける

 岩本が大きな影響を受けたのは、ナショナルチームで男子選手をけん引する武田大作(三一)=ダイキ=だ。昨年まで全日本選手権をシングルスカルで七連覇、国内のトップに立ち続ける。アトランタに続き出場したシドニー五輪では軽量級ダブルスカルで日本初の六位入賞、さらに二〇〇二年のワールドカップでシングルスカル三位。アテネでも初のメダルが期待されている。身長一七八センチと男子選手の中でも小柄な武田の活躍は「大切なのは体格ではなく技術」ということを証明してくれた。

 「武田さんの姿を見たら、自分もまだまだできると思った。レベルの高い選手が近くにいる影響は大きい」。

 岩本はこの四年間、ボートの原点に立ち返る試みを続けてきた。練習では一漕(こ)ぎ一漕ぎ、艇への意識を研ぎ澄ませる。その上で体の使い方やリズムを意識し、力まかせではなく、艇のスピードに合った体の動きを考えながら漕ぐ。それはこれまで体に染み付いていた動きを、基本から見直すものだった。

 最初は「ボートを速く進めるというすごくシンプルなことなのに、自分の動きがイメージにうまくかみ合わない」ともどかしさばかりを感じていた。しかし、「とにかく考えながら漕いだ」練習の繰り返しは、ボートの面白さを改めて感じさせてくれるようにもなった。欧州転戦中の今年六月、岩本は友人へのメールでこう記した。「私はまだまだ下手くそで、まだまだやれることがある」と。

 中学時代は水泳部だったが、興味は美術や音楽にあり、将来は漫画家になろうと思ったこともある。そんな岩本がボートを始めたのは「何か大きなことをしたい」という思いから。一九九二年夏、バルセロナ五輪の水泳で金メダルに輝いた岩崎恭子に刺激を受けた。高校進学後は姉も活躍した岡谷南高校の漕艇部に入部。諏訪湖で出合ったボートは人生を大きく変えた。

 二度目の五輪を間近に控え、「前回はただ一生懸命だったけど、今回は周りが見えて落ち着いて臨めそう」と話す。調整も順調に進み「艇のスピードが出てきた」と手ごたえを感じている。「目標は八位入賞。ボートを漕いできた十年間のすべてをぶつけたい」。

 レースは十五日に予選が始まる。諏訪湖育ちの岩本が世界の舞台で勝負を挑む。

<写真>7月に諏訪市内のホテルで開かれた壮行会で花束を受ける岩本亜希子(右)
(長野日報:2004年8月12日掲載)

オリンピックでの活躍を
岩本亜希子選手壮行会
 アテネオリンピックボート競技日本代表の、岩本亜希子選手の壮行会が諏訪市などの主催で行われました。岩本選手は応援のみなさんの前で、アテネでの健闘を誓いました。


(広報すわ:2004年8月1日 No.756掲載)

私の原点:アテネに挑む県勢(1)
岩本亜希子(ボート)(上)
高一 コーチとの出会い
「世界狙うか」に興奮

 アテネ五輪の開幕が2週間後に迫ってきた。県勢はボートの岩本亜希子(アイリスオーヤマ)、自転車トラックの大菅小百合(三協精機)、自転車マウンテンバイクの中込由香里(シーナック・スぺシャライズド)が出場する。現在につながった3人の原点を探った。  (小平匡容記者)


 「キツネにつままれたような心境でした」。母の君子さんは、娘が高校1年の秋の出来事を鮮明に覚えている。
 岡谷南高OBの藤森周二コーチが、背広にネクタイ姿で岩本亜希子の自宅を訪ねて来た。「その前に、練習で高価な艇を壊していたので、そのことかな」。母親は最初にそう感じた。
 ところが、藤森コーチは「亜希子さんを世界で戦える選手に育てるため、お願いがあって来ました」と切り出す。君子さんは「まさか自分の娘が…。そんな才能があるわけないと思った」と振り返る。

 諏訪湖にある下諏訪町漕艇場は千メートルのコース。国際基準の二千メートルで勝負できる選手を育てるには、十分とは言えない環境だ。そこで藤森コーチは、東京五輪の会場で国内トップ選手が集まって練習する埼玉県戸田市の戸田漕艇場に目を向けた。岩本に週末は戸田で練習するよう勧めた。
 ただ、藤森コーチがいつも一緒に戸田へ行くのは無理だった。知り合いの大学のコーチに指導をお願いしたいが、けがをした時の責任などをどうするか。親の承諾を得るため、岩本の自宅を訪ねた。

 半年前にボートを始めたばかりで、当時は実績のない選手。だが、負けず嫌いで努力家だった岩本の将来性を、藤森コーチは買っていた。「上の段階を目指すには、長期的スパンでやることが必要」と考え、将来につながる練習を大事にした。

 「世界を狙ってみるか」。同コーチからの問いかけを、岩本ははっきり覚えている。「世界という言葉に興奮し、『はい』と即答していました」。それから「自分にもできるかもしれない」と自信が芽生え、目標は明確になっていった。
 「藤森コーチとの出会いがなければ、今の私はなかったと思います」と岩本は言う。


 岩本亜希子(いわもと・あきこ)岡谷南高でボートを始める。早大、日体大大学院を経て、昨年4月からアイリスオーヤマ(仙台)に所属。14位だったシドニー五輪に続き、軽量級ダブルスカルに出場する。25歳、諏訪市出身。

<写真>壮行会で岩本亜希子(右)を激励した藤森周二さん=21日、諏訪市内
(信濃毎新聞:2004年7月30日掲載)

私の原点:アテネに挑む県勢(2)
岩本亜希子(ボート)(下)
高三の夏 初の国際舞台
自信砕かれ再出発

 初の国際舞台となる世界ジュニア選手権を控えた96年夏。兵庫県加古川市で行われた直前合宿に、高校3年の岩本は意気込んで乗り込んだ。

 前年の全国高校総体は女子シングルスカルで6位になり、県ボート関係者から「期待の星」として注目された存在。世界ジュニア選手権の代表は、年上の選手とも争って勝ち取った。自分の力が通用する自信はあった。

 ところが、2週間余にわたって行われた合宿で、自信は打ち砕かれた。
 練習は早朝、午前、午後の3回。1日に4時間近くもオールを握ると、合宿2、3日目で手のひらのまめがつぶれた。練習のたびにテーピングを施すが、皮がむけた所から血がにじみ出し、感覚が次第になくなっていく。

 「手のひらがぼろぼろで、ご飯を食べようと思ってもはしが持てない。風呂では手が痛くて体が洗えなかった」。肉体的な痛みに追い打ちをかけるように「私ばかりが怒られていた」という。

 苦しい合宿を経て臨んだスコットランドの世界ジュニア選手権。最終日の4人乗りスカル順位決定戦のスタート直前、ひとつ前に乗っていた先輩から声がかかった。「岩本、おまえにかかっているんだからしっかりして」。とっさに「はい」と答えるのが精いっぱいだった。

 レース後に考えた。「先輩の言葉はどんな意味だったんだろう。私がお荷物だったということなのか。それを理解した時は、悔しくて悔しくて」。時間がたつにつれ、感情が込み上げ、涙となった。  「あんなにつらく、痛い目にあった合宿はなかった。そして、レースで味わった悔しさから、何でも1番になりたいと思うようになった」。勝負の世界で、本当の厳しさを目の当たりにした最初の経験だった。

<写真>96年の世界ジュニア選手権の代表に決まり、諏訪湖で練習する岩本亜希子
(信濃毎新聞:2004年7月30日掲載)

五輪へふるさとの励まし 諏訪で岩本さん壮行会
諏訪市渋崎出身で、アテネ五輪ボート代表(軽量級ダブルスカル)の岩本亜希子さん(25)を励ます壮行会が二十一日夜、市内のホテルで開かれた。市や県ボート協会、地元区のなどの主催で四百人余が出席。五輪での活躍に期待を寄せた。

 山田勝文市長はあいさつで「シドニーに続く二回目の五輪出場は非常にうれしい。諏訪圏域二十万人がもろ手を挙げて応援しています。頑張って」と激励。花束を受け取った岩本さんは「練習で自分を見つめ直す機会は多いが、こんなに多くの人が応援してくれているのを見るのは初めて。この事実を胸にアテネでは頑張ってまいります」と健闘を誓った。

 懇親会では、岩本さんの周りに母校・岡谷南高校などの生徒らが集まって、サインを求める場面も。同高ボート部の久世朋加さん=三年=は「(岩本さんは)きらきら輝いているようでした。ぜひ活躍してほしいし、自分も練習に励みたい」と話していた。

 岩本さんは二十六日に日本を出発。イタリアで合宿した後、アテネ入りする。

(信濃毎日新聞:2004年7月24日掲載)

岩本選手アテネ頑張れ
諏訪で壮行会
 「岩本選手、頑張れ」−。ボートの女子軽量級ダブルスカルのアテネ五輪日本代表、岩本亜希子選手(二五)=アイリスオーヤマ・諏訪市渋崎出身=の壮行会と激励パーティーが二十一日夜、諏訪市のRAKO華乃井ホテルで開かれた。四百人を超す地元住民が集まり、シドニーに続き二大会連続で五輪に出場する岩本選手を激励。岩本選手は「皆さんの温かい応援をパワーに頑張ってきます」と健闘を誓った。

 山田勝文諏訪市長、高橋文利県ボート協会長らから「平常心で頑張れ」「ベストを尽くして」などと励ましを受けた岩本選手。中学、高校時代の友人や恩師、諏訪湖でボートを漕(こ)ぐ後輩からも声援や拍手を受け、「こんなにたくさんの人が応援してくださって、合宿の疲れも吹き飛びます」と笑顔を見せた。

 会場では高校生や子供たちに求められるサイン、写真撮影にもこたえ、諏訪清陵高校端艇部の高木慎也君(三年)が「僕も岩本選手のように早稲田大学に行って漕ぎたい」と話すと、「ぜひ続けて頑張って」と応援した。

 「調子はいい。これまでボートをやってきた十年分のすべてをアテネにぶつけ、八位入賞を目指したい」と岩本選手。二十六日に日本を発ち、北イタリアで合宿。八月十一日にアテネ入りする。

<写真>壮行会で花束を受ける岩本亜希子選手

(長野日報:2004年7月23日掲載)

岩本選手『絶好調です』
ボートでアテネ五輪へ
知事訪ね活躍誓う
 ボートの女子軽量級ダブルスカルでアテネ五輪に出場する、諏訪市出身の岩本亜希子選手(アイリスオーヤマ)が二十一日、県庁に田中康夫知事を訪ね、大舞台での活躍を誓った。

 岩本選手は四月に中国・上海で開かれたアテネ五輪アジア予選で、内山佳保里選手(デンソー)と組んで二位に入賞。シドニー五輪に次いで二大会連続出場を果たした。今回は二十六日にイタリアへ渡り、合宿を経て八月十一日にアテネに入るという。

 八位入賞が目標という岩本選手は「舟もよく進み、すごく集中できている」と心身共に充実した様子で、田中知事に対しても「絶好調です」と力強くあいさつ。田中知事は「平常心で臨めば成果を納めることができると思う。頑張ってください」と激励した。

 岩本選手はこの後、出身地の諏訪市や、母校の岡谷南高校、岡谷市などを表敬訪問。夜には地元の壮行会に出席した。

<写真>五輪出場のあいさつで田中知事と歓談する岩本選手(左)

(長野日報:2004年7月22日掲載)

スタンド
 ○…諏訪市出身でアテネ五輪ボート代表(軽量級ダブルスカル)の岩本亜希子(二五)=アイリスオーヤマ・岡谷南高−早大、日体大大学院出=が21日、県庁に田中康夫知事を訪ね、シドニーに続く2度目の五輪出場を報告した=写真。

 ○…五輪の競技会場は波が強く、転覆するボートも多いといい、岩本は「サバイバル(生き残り)競争になる」と緊張した様子。知事は「ふだんの力を出せば、成果も出るでしょうから平常心で」と励ました。

 ○…現在の仕上がりを岩本は「スピードが出てきて調子がいい。ポートを始めて10年目。10年のすべてをぶつけたい」と話し、目標は8位入賞とした。日本を26日に出発し、イタリアで合宿後、8月11日にアテネ入りする。

(信濃毎日新聞:2004年7月22日掲載)

五輪ボート代表…岩本選手にエール 上諏訪駅が横断幕
 JR上諏訪駅はこのほど、諏訪市出身でアテネ五輪ボート代表(女子軽量級)の岩本亜希子選手を応援しようと、改札口近くに横断幕を掲げた。

 横断幕は縦九十センチ、横六メートルに「祝 健闘を祈る」と大書き。改札口を出て右手、待合室入り口の上部に競技が終わるまで掲示する。助役の玉川茂さん(46)は「駅は県内外の多くの人が利用する公共の場。横断幕を見てもらって応援ムードを広げたい」と話している。

 ボート競技は陸上や柔道などに比べて地味なこともあり、地元住民以外では岩本選手を知らない利用客も多い。諏訪市豊田の主婦(65)は「地元ではみんな、前回のシドニー五輪から応援している。活躍して日本中を驚かせてほしい」と期待していた。

(信濃毎日新聞:2004年7月10日掲載)

アテネ頑張れ!岩本亜希子選手 出身の諏訪市、幕掲げて応援
 諏訪市は二十二日、同市出身でアテネ五輪ボート代表(女子軽量級ダブルスカル)の岩本亜希子選手の健闘を祈り、市役所とJR上諏訪駅前のデパート「諏訪丸光」の正面に、横断幕や懸垂幕を掲げた=写真。

 市役所の横断幕は縦八十八センチ、横八・五メートル。丸光の懸垂幕は縦十メートル、横一メートル。それぞれ大きな字で「祝 健闘を祈る」と書いた。八月十四日からのボート競技が終わるまで掲げ、市を挙げて岩本選手の活躍を応援する。

 市教委体育課によると、幕を掲げるのは、岩本選手が早大在学中に初出場した前回のシドニー五輪に続いて二回目。幕は新調した。

 市や市教委などは七月二十一日、市内のホテルで岩本選手の「壮行会・激励パーティー」を行う。一般会費三千円。問い合わせは同課(電話52・4141)へ。

(信濃毎日新聞:2004年6月23日掲載)

おはよう・きょうの顔=岩本亜希子さん 「悔しさ…原動力」
[ボートでアテネ五輪代表に選ばれた 岩本 亜希子(いわもと・あきこ)さん]
 「前回のように浮かれていない。身が引き締まる思い」。二〇〇〇年シドニー大会に続き出場する五輪の重みを感じている。

 四月下旬に中国・上海で行われたアジア予選で、軽量級女子ダブルスカルに乗って2位となり、五輪出場権(3位以内)を得た。が、「うれしさよりも、ぼう然とした」。1位の中国に15秒余もの大差をつけられたショックの方が大きかった。

 九二年夏、バルセロナ五輪で同じ中学二年の岩崎恭子さんが水泳で金メダルを獲得して衝撃を受けた。「自分も何か大きな事をしたい」と、岡谷南高校でボート部へ。ほとんどの選手が高校から始める競技で、姉もやっていたのが理由だった。

 172センチの長身を生かして順調に力をつけ、三年で世界ジュニア選手権の代表に。早大四年で出場したシドニー五輪は軽量級ダブルスカルで14位。だが、その後伸び悩む。「シドニーまでは無意識でうまく漕(こ)げていたが、意識すると、どう漕いでいたか分からなくなった」。ナショナルチームからも一時外れた。

 日体大大学院を経て昨年春、生活用品製造卸のアイリスオーヤマ(本社・仙台市)に入社。実業団で再出発し、巻き返した。自他共に認める負けず嫌いで「悔しかった思いが私の原動力になっている」。

 海外遠征にはスケッチブックを持参し、建物や人物を描いて気分転換する。「子どものころの夢は漫画家で、いつも色鉛筆を持ち歩いていた」。諏訪市出身。二十五歳。

(信濃毎日新聞:2004年5月12日掲載)

この人に聞く
ボートでアテネ五輪に出場する岩本亜希子さん

精神面で強さ目標は8位入賞

 諏訪市出身でボートの岩本亜希子選手が、アテネ五輪にダブルスカルで出場する。シドニーに続く二大会連続の五輪。四月下旬に中国・上海で行われたアジア地区予選で、女子軽量級ダブルスカル種目の二位になり、出場枠を得た。夏のアテネで世界の強豪に挑む岩本選手に、現在の心境や抱負などを聞いた。

−五輪出場が決まった時の心境は
 レース直後は五輪枠を取れてうれしいというより、結果にぼうぜんとしたというのが正直なところです。今の日本のレベルであればアジアで三枠に入るのは当然で、どう戦うかが重要。(トップの)中国にじりじりと引き離され、焦って二人の漕(こ)ぎがかみ合わないまま、約15秒の大差をつけられて終わり、悔しかった。でもレースから時間がたち冷静になった今は、あれが本番でなくて良かったと思っています。改善点が明確になりました。

−アテネ五輪出場を意識したのはいつからか
 十四位に終わったシドニー五輪以降、世界に挑戦したいという強い思いがあります。でも空回りもありました。シドニーの翌年は結果を出せなかったし、アテネ五輪出場をかけた昨年八月の世界選手権ではダブルスカル代表から漏れ、シングルスカルで出場して十九位。ダブルに乗れなかったショックに加え、シングルで世界とのレベルの差を再認識してとにかく悔しかった。ダブルは五輪出場枠を日本が得られなかったので再度選手選考をしてアジア予選にかけることになりましたが、あの時「来年のアジア予選は絶対に私がダブルに乗る」と心に決めました。

−アジア予選に向けた国内選考は
 去年十一月から今年三月まで毎月二週間の選考合宿がありました。代表になるためには自分がほかの選手と小差ではいけない。体調を崩さず、常にベストの状態で臨むことを心掛けました。気を抜いた練習はもったいない、一番内容の濃い日々を過ごそうと。ボートを始めて十年目になりますが今までで一番充実した練習を重ねられました。

−シドニー五輪以降、技術面での変化は
 日本の男子は世界でも上位の結果を出しています。体格は小さいのに世界と戦っているのを見ると、私たちでもできるんだと刺激や影響を受けます。私はその選手から漕ぎのイメージを聞いた時、以前は意味がわからなかった。水や艇の動きと体の動きをリンクさせ、漕手でなく艇を主体に考えることなど、うなずい て聞いているのですが本当には理解できていなかった。ずっと考えながら漕いだ日々の積み重ねで小さなひらめきも重なり、やっとそのイメージを感じられるようになりました。 −社会人選手となり環境も変化しましたが
 今は半プロ生活。恵まれた環境を与えてくださる会社にすごく感謝しています。自分の言動に責任をもたないといけないので、いつでもボートをやめられる学生のころとは意識が違う。精神面の強さにもなっています。

−アテネ五輪での目標は
 目標は八位入賞です。日本女子はアトランタ五輪でダブルスカル十三位、シドニー五輪で十四位。世界と勝負できないままですが、そろそろ大きな壁を突き破って変わらなければ。そのためには漕ぎの一本一本の強さ、質を上げることと後半の粘りが課題。コンビを組む内山佳保里選手と一緒に練習を始めたのは三月 末からで、まだまだ二人でやらなければいけないことがあります。有酸素系のトレーニングを増やし、五、六月の欧州転戦で軌道修正をしながら一番いい状態にもっていきたいです。

−ふるさとの諏訪湖でボー卜をやっている後輩たちへのメッセージを
 私はボートを始めたことが大きなチャンスで、人生の岐路だった。投げてもらったミカンを顔で受けたりして、家族からはずっと運動能力が低いといわれ続けていました。アテネ行きが決まり、たくさんの人から応援の言葉をいただき、シドニーの時もそうでしたが改めてああ五輪って特別なんだと感じています。どこにチャンスがあるかわからないので、後輩たちには自分で決めたことには迷わず進んでほしいし、チャンスを見逃さないでほしいです。


 岩本亜希子(いわもと・あきこ) 岡谷南高−早大−日体大大学院卒。高校入学後にボートを始め、1996年世界ジュニア選手権クオドルプル9位。99年アジア選手権で軽量級シングルスカル優勝。2000年全日本選手権シングルスカル優勝。シドニー五輪に県内の女子ボート選手として初めて出場した。諏訪市渋崎出身。アイリスオーヤマ所属。25歳。

(長野日報:2004年5月16日掲載)

岩本アテネ切符獲得
女子ボート2大会連続で五輪へ
 諏訪市出身のボートの岩本亜希子選手(アイリスオーヤマ、岡谷南高−早大−日体大大学院出)が二十四日、中国の上海で行われたアテネ五輪アジア地区予選の女子軽量級ダブルスカル決勝(二千メートル)で二位になり、三位までに与えられる五輪出場枠を獲得した。日本ボート協会は出場権取得選手を五輪代表にする方針で、岩本選手はシドニー五輪に続く二大会連続の五輪出場を決めた。

 内山佳保里選手(デンソー)と組んで出場。レースは序盤から飛び出した中国を日本が追い掛ける展開。トップの中国との差は後半にかけて徐々に広がり最後は約15秒差をつけられたが、7分19秒42で二位に入った。

 岩本選手はレース終了後、同市渋崎の自宅に電話をかけ、「中国との差が開き、タイムには満足していないが、代表枠をとれてよかった」と報告した。

 岩本選手は岡谷南高入学後にボートを始め、一九九六年世界ジュニア選手権クオドルプル九位。早大に進み、九九年アジア選手権で軽量級シングルスカル優勝。二〇〇〇年全日本選手権シングルスカル優勝。県内の女子ボート選手として初めて五輪出場したシドニー五輪では目標の準決勝進出を逃し、アテネでの雪辱を誓っていた。〇二年アジア大会ダブルスカル二位。二十五歳。

<写真>岩本亜希子選手

(長野日報:2004年4月25日掲載)

岩本、アテネへ
2大会連続の五輪
 ポートのアテネ五輪アジア予選は24日、上海で行われ、女子軽量級ダブルスカル決勝で岩本亜希子選手(アイリスオーヤマ・岡谷南高−早大、日体大大学院出)と内山佳保里選手(デンソー)の日本は7分19秒42で2位に入り、今大会で上位3カ国に与えられるアテネ五輪出場資格を獲得した。

 日本ポート協会は出場資格を獲得した選手を五輪代表とすることを決めており、岩本、内山の両選手がアテネ五輪に出場する。


 岩本 亜希子(いわもと・あきこ)00年シドニー五輪女子軽量級ダブルスカル14位。02年釜山アジア大会女子ダブルスカル銀メダル。日体大大学院出。172センチ、60キロ。25歳。諏訪市出身。

<写真>岩本亜希子選手

(信濃毎日新聞:2004年4月25日掲載)


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