2015年5月 9,10の両日、長野県諏訪湖の下諏訪町漕艇場であった第38回信毎諏訪湖レガッタの会場で、3月26日に58歳で死去した元モスクワ五輪(1980年)代表のボート選手、岩波健児さん(岡谷市)をしのぶ献花セレモニーが行われました。親交のあった人や大会出場の高校生など大勢の人たちが思い出を語りながら岩波さんに感謝すると共に、冥福を祈りました。漕艇場モニュメント前に用意された祭壇には、イタリア製の愛艇「アロー号」やオールが飾られ、参加者は白いカーネーションを献花したり遺影に語りかけ、岩波さんが体調を崩す2年前まで、30年近く使用した愛艇に触れたりして、涙を流す人もいました。
元県ボート協会理事長の中島伸一さん(77)=諏訪市=は岩波さんを高校時代から知る1人。「長野県のボート界を牽引した。みんなの目標となり貴重な存在だった。人間性も素晴らしかった」と哀悼の誠を捧げました。3位入賞した1993年徳島国体成年男子舵手付フォアで一緒に漕いだ岡谷市の会社員、加藤洋さん(49)と安曇野市の銀行員、馬場智義さん(47)は「ピッチを上げるとき、後ろの選手が合わせやすいように気遣ってくれた。偉ぶらず、懐の深い謙虚な人だった」と思い出を話していました。
また、10年近く指導を受けた下諏訪町役場クルー「チーム岩健」のキャプテンで町保健師の矢﨑順子さん(42)は、2012年全国市町村交流レガッタ豊岡大会(兵庫県豊岡市円山川城崎漕艇場)で成年女子の部で優勝したことに触れ「岩波さんにコックスに乗ってもらった。優勝を目指した岩波さんに激漕で恩返しできてうれしかった」と感謝していました。
献花式は、友人、知人など多くの人から、お別れの会開催の有無について問い合わせが相次いだことを受け、県ボート協会と下諏訪町漕艇協会の有志で実行委員会を組織。長野県ボート界に多大な貢献をした岩波さんの最後を飾るのにふさわしい場として諏訪湖レガッタを選んだ、といいます。
県ボート協会などによると、岩波さんは県立岡谷南高漕艇部3年時にナックルフォア種目で高校総体、国体ともに2位。中央大4年で全日本選手権シングルスカル初優勝。1979年に下諏訪町役場に就職。世界選手権にもダブルスカルで出場しています。モスクワ五輪代表にも選出されましたが旧ソ連のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国や日本の五輪ボイコットで代表は幻に終わりました。町体育係長時には県ボート協会事務局長も務めました。
岩波さんが多くの人から愛されたのは、偉大な選手だっただけでなく人柄の素晴らしさに魅了されたからと話す関係者は多い。おおらかで爽やか、どんなことにも嫌な顔一つせず笑顔で全力で取り組み自分に妥協しない姿を、職場の先輩として長年見てきた実行委員の1人、西村和幸下諏訪町漕艇協会長(65)は「練習後、汗だくで、艇庫の前に仁王立ちになって高校生の練習を見守っていたのが思い出に残る。20年の東京五輪の選手育成の夢もあったのではないか」と残念がっていました。青木悟下諏訪町長(県ボート協会長)は「高校3年の時、一年生で身体の大きかった岩波君をボートに勧誘した。長い間共に歩み、町長就任後は秘書として助けてもらった。感謝すると共に心からご冥福をお祈りしたい」と早すぎる死を悼んでいました。