永遠のクルーたち

山崎 壯一['50諏訪清陵高校卒]51回

 この度は「長野県ボート協会」設立50周年、誠におめでとうございます。

 私とボートとの関わりは遡ること旧制諏訪中学校時代からになる。明治38年創部の歴史ある端艇部入部後、学制改革で諏訪清陵高校併設中学3年生になった昭和22年のときのことである。我ら中3クルーは非常にまとまりがよく、部内の試合で図らずも高校1年生、2年生の上級生クルーを破り、第1位となった。「よし、今度は対外試合だ」と昭和24年の東京国体出場を次の目標に掲げた。 その実現に向け、昭和23年には伝手を頼って、ベルリンオリンピックで活躍し、当時、沼津市でコーチをしていた早稲田大学OBの遠藤選手を招き、沼津工業高校クルーと合同練習を行った。それまで自己流の練習だったが、基礎トレーニングから教わることができ、大いに技術向上を図ることができた。

 東京国体には残念ながら長野県からの出場が見送られたが、出場に備えて事前に会場の戸田ボートコース(昭和15年に計画された幻の東京オリンピックでの予定コース)を視察したところ、我々の練習していた諏訪湖コースがUターンコースだったのに対し、直線コースだったことに大いに驚かされたことが記憶に残っている。井の中の蛙ではなく、目を外に向ける大切さを改めて痛感したものである。

 清陵クルーが長野県代表として初めて出場するのは昭和25年秋の愛知国体になるが、対外試合に出場したのは、その前年、24年夏の中部レガッタが最初である。遠征費を稼ぐのに、クルー全員でアイスキャンデイを売り歩いたのも良き思い出になっている。本番の中部レガッタでは日頃の練習の成果を発揮することができ、合同練習を行った沼津工業高校チームを負かすことができた。

 その後、クルーは社会に出てそれぞれの分野で活躍し、ボートとの縁も遠ざかり、静かかな余生を送るのも悪くないと思っていた65歳位の頃、マスターズレガッタの存在を知った。当時のクルーが1名を除いて皆元気だったこともあり、東京、千葉、神奈川、諏訪とばらばらになっていたメンバーが月に一度は諏訪湖に集まり、再びオールを手にするようになった。学生時代、コックスの補欠、いわばマネージャー役だった私も「山壯、漕げ」と声がかかり、クルーの一員となって、今では練習には必ず参加し、体力の限界に挑戦(!?)しつつ、諏訪湖を渡る心地よい風を感じている。

 今年、平成14年でマスターズレガッタ出場も3回目になり、70歳になっても当時の中3クルーの結束が強く、練習に、その後の反省会(宴会)にと50年以上前の青春時代に戻って充実した時間を過ごせるのも、ボートの取り持つ縁ではないかと思っている。

●同封写真説明:ベルリンオリンピックでボート競技に出場した遠藤選手(前列中央)をコーチに招いて。


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