平成18年度の「清陵同窓会報」では「我が青春の原点 諏訪中・清陵スポーツの系譜」と題して清陵のスポーツ・クラブ活動の特集が組まれました。記事の中には、スポーツ界で活躍する同窓生も取り上げられており、ボート競技では、原 大さん(73回)、岡西正明さん(98回)が寄稿されていますのでご紹介いたします。また、特別寄稿として山崎壯一さん(51回)によるテムズ・チャールズ遠征記も併せて掲載いたします。
ある日、突然の「自反而縮雖千萬人吾往矣」
原 大 (73回)早稲田大学政経学部卒業
三菱東京UFJ銀行 常務執行委員
(西日本エリア支社担当)
全日本ジュニア選手権(エイト)2位
全日本…清陵時代は、剣道部で入学後始めた剣道に夢中となり、2年生で二段になりました。受験体制に反発し、夜中、竹刀を振り反骨を気取っていた事は甘酸っぱい思い出です。 早稲田の政経に入学直後、文化系のサークルに入りましたが、学内の過激派セクトの動きが活発化しつつあり、また、だれた学生生活にも嫌気がさし始めた5月のある日、まさに『自反而縮雖千萬人吾往矣』の精神に突き動かされる様な、厳しい環境にこそ自身を追い込むべきと言う精神と肉体の高揚を押さえ切れず、体育会の漕艇部に入部しました。
望んだ通りの厳しい練習に明け暮れた4年間でした。正に、筆舌に尽くし難い経験もいたしました。しかし、東京五輪後10年頃の事で、五輪に出場した先輩が、監督やコーチとして指導して下さり、諏訪の田舎から出てきた身には、「世界の舞台」が身近に感じ、心身ともに充実し、成長させてもらいました。4年生では漕艇部の主将を務めました。エイトの世界選手権派遣決定決勝レースで、学生ではNO.1でしたが、社会人に敗れ、結局「世界の舞台」には立てませんでした。このレースは今でも時々夢に見ます。
卒業後は、大学のコーチやOB会の幹事長などを務めましたが、今では毎年春の早慶レガッタで高校の先輩、同期、後輩ら戦友と会うのが楽しみです。
ボート人生の原点
岡西 正明 (98回)中央大学経済学部卒業
東レ(株)滋賀ボート部所属
1997-99年 全日本大学選手権エイト3連覇
1997,99年 アジア漕艇選手権エイト優勝
2000年 世界選手権エイト7位
2001-2004年 国民体育大会 舵付きフォア4連覇
2005年 全日本選手権エイト準優勝清陵高校に入学した私は、歓迎乗艇でボートを漕ぐ楽しさに触れ、端艇部へ入部した。当然ボートを漕ぐつもりでいた私に、先輩達はCOXになることを勧めた。体が小さかったからだ。COXとは、声をかけ、舵を取るポジションである。ボートを漕ぎたい気持ちもあり迷ったが「岡谷南に勝ってインターハイに行こう。」と言う先輩達の真剣な眼差しに引かれ、COXになることを決めた。当時、岡谷南は前年のインターハイチャンピオンであり、普通ならば簡単に「勝とう。」と言える相手ではなかった。しかし私達は本当に勝てると信じて、毎朝、毎夕、厳しい練習に励んだ。その結果、インターハイ予選では、0.14病差で勝利し、清陵高校として11年ぶりに舵手付きフォアでインターハイ出場を果たした。 私はその後も、大学、社会人とボート競技を続けている。結果を出すことが最優先になると、モチベーションの維持が難しくなる時がある。そんな時私は、厳しかったがとても楽しかった高校時代を思い出す。本当に大切な事に気づく事ができるからだ。それは「ボートが好きだ。」という事である。今後はボートの魅力を多くの方に知ってもらえるようがんばりたい。
[編者補足:「11年ぶりのインターハイ」については男子クルーとしてという意味です。]
端艇部OB海外遠征記(特別寄稿) 『人生の幸せをオールに託して』
テムズ川・チャールズ川を漕ぐ山崎 壯一 (51回・五一漕陵会代表) 70歳を過ぎて、幸福とは何かを考えるようになった。思うに、ソニー創業者、故井深大氏や元日本機械学会会長、土屋喜一民らが主宰するBTQ研究会が提唱するように、人生最後に思い残すことなくバタンキューすることが幸せといえるのではないだろうか。そのためには悔いを残さない生き方、すなわち夢や目標を持ち、その実現に向けて生きていくことが大切であると思っている。 ボートは私の夢のひとつである。卒業以来47年振りの65歳を過ぎたときに、諏中・清陵時代の端艇部同期OBが集まり、以来月に一度、諏訪湖でボートを漕ぐようになった。このメンバーによる名古屋でのマスターズレガッタ優勝を機に、オアズマン憧れのボート発祥の地、イギリスはロンドン・テムズ川でオールを握ろうと話が盛り上がった。そして、ちょうど8名いることだし、全員が参加でき、ボートの花形でもあるエイトを漕ぎたいということになった。下諏訪艇庫で発見した古いエイト用ボートを使えるようにし、クルーがそれぞれマイ・オールを購入。後輩の平林君(90回生)を指導者兼コックスに迎え、一昨年(2004年)7月には、「ロイヤル・ヘンリー・レガッタ」観戦およびテムズ川でのエイト漕艇の夢を果たした。同期の応援団22名を含め、全員感慨一しおだった。
だが、夢はとどまることを知らない。イギリス遠征後、「生涯現役」の意気込みは衰えず、直ちに次の目標として世界有数のボートレース、アメリカ・ボストンはチャールズ川の「ヘッド・オブ・チャールズレガッタ」と同一コースでのエイト乗艇を掲げ、その夢が昨年(2005年)秋に実現したわけである。
アメリカ遠征を控えて諏訪湖での練習中のこと。前年以来、平林君に指導をお願いしていたのだが、「エイトはバランスが重要。現役時代のフィックス艇(固定席六人乗り)の安定性とは異なり、シェル艇は特に慣れてきたところが危ない」と言われ続けていた。が、年の功か、慎重に練習を重ね、一度も転覆することもなく遠征2週間前の練習を終えようとしていた。ボートを桟橋に近づけ、コックスの小松君から「ストロークサイド降りろ」の指示で私は桟橋に上がった。その時、何を思ったのか、バウサイドのクルーも指示を待たずに一緒に桟橋に上がろうと立ち上がったのだ。あっという間にバランスが崩れ、横転転覆してしまった。クルーの一人大堀君が水面から顔を出し、泳げない私も一緒に諏訪湖に落ちたのではないかと心配して「山壮はどこだ」と叫ぶ姿を、私は桟橋の上から呆然と眺めていた。「あやまちは安き所になりて、必ず仕る」というが、「練習にも慣れ、二度目の海外遠征も間近になった頃」、「練習を終えて桟橋に近づいた時」と二重の安きところで貴重な教訓を得た。「コックスの命令一下、ひとつになって動くこと」を改めて肝に銘じた。
いよいよ本番の10月となった。家族を含め13人の遠征団は勇躍渡米し、秋色深いボストンに入った。当日はレース観戦後、名門コース(3マイル)のスタートからゴールまでの往復約10,000mをゆっくり漕ぐことができた。諏訪湖での練習とはやはりスケールが違い、2回目の海外遠征で多少余裕ができたのかもしれないが、ボストンでは7つのメガネ橋や秋色に彩られた沿岸の景色を眺めながら、最高の時間を楽しめた。クルー全員がひとつになって漕ぐことができ、かけがいのない思い出となった。もう一度漕いでみたいと思ったくらい感動的だった。また、諏訪中学端艇部の創部(1901年)以来105年目の記念行事としての使命を果たすこともできた。納艇後の桟橋での「校歌」「金色の民」「あなうれし」の蛮声が異国の川面に流れた思い出は何事にも変えられない至福の時であった。
ボートを通じて、目標を持ち、それを実現していくことの素晴らしさを味わうことができ、さらに健康維持にも役立ち、ほんとうに幸せだと思っている。さて、次の目標をどうしようか。まだまだ、オールから手を離せそうにない。
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上記のほか、「学校だより」のコーナーで運動系クラブの活躍として端艇部が写真入りで紹介されています。